912年?〜997年
平安時代中期の武将。清和源氏の祖。
摂津の守となって、摂津国大神郷多田(現川西市多田院)の地に荘園(多田荘)を拓いたので、多田源氏の祖とも言われる。
天禄元年(970)、銀山川で金瀬五郎が銀を発見して源満仲に献上し、その後、多田銀銅山は源氏の重要な宝庫になったと言われています。
536〜1598年(天文5年〜慶長3年)
安土桃山時代の武将。織田信長に仕え、信長の死後、天下を統一する。
天正年間(1573〜91)の豊臣秀吉の時代が第一隆盛期で、大坂城の財政を潤した台所間歩や、千成瓢箪の馬印を入口に立てて採掘した瓢箪間歩など、秀吉ゆかりの坑道が今も残されている。
秀吉は、それまでの精錬工程に加え、新しい精錬技術「南蛮吹き」を多田銀銅山でいち早く導入し、銀銅の吹き分け精度を飛躍的に高めて、豊臣政権を支える重要な財源にしました.
1559〜1619年(永禄2年〜元和5年)
安土桃山時代の公家。歌人で冷泉家第9代目
『言経卿記』には、天正16年(1588)9月に冷泉為満が他の公家と共に多田銀銅山を訪れた次のような記録がある。
「冷、早朝二摂州多田銀山見物に被行了。此比出来也伝々」
*此比出来〜新しく開発された鉱山(銀山再開発か?)
1559年〜1635年(永禄2年〜寛永12年)
安土桃山時代の狩野派絵師。
近江浅井氏の家臣の子として生まれ,秀吉の小姓として仕えていたが、画才に長けていた事から狩野永徳の弟子となる。
天正14年(1586)に秀吉から多田銀銅山で産出する紺青石の採掘権を与えられた。
その鮮やかな多田銀銅山特有のブルーは他に類を見ず,この顔料を用いて優れた作品を生んだ山楽は、狩野派を継承する京狩野派の始祖となる。
1642年〜1693年(寛永19年〜元禄6年)
江戸時代の浮世草子作家・俳諧師。
代表作は『好色一代男』
元禄元年(1688)に刊行された『日本永代蔵』に、多田銀銅山の屏風を娘の嫁入り道具として描かせる話しが出てくる。
「娘大人しくなりて、頓(やが)て、嫁入り屏風を拵えとらせけるに、洛中尽くしを見たらば見ぬ所を歩行(あるき)たがるべし。源氏・伊勢物語は心のいたずらになりぬべき物なりと、多田の銀山(かなやま)出盛りし有様書かせける」
※当時、多田銀銅山が全国的に知られていたことがわかる。
1729〜1779年(享保14年〜安永8年)
江戸時代中期の本草学者。エレキテル(摩擦起電機)の復元製作で知られる。
長崎留学の帰り、大坂へ滞在していた頃に多田銀銅山を訪れ、水抜き普請を行ったとある。郷里讃岐(高松)の知人に宛てた書状には次のようにある。
「此間、多田銀銅山見分いたし候、<中略>まだまだ銀ハいくらも御座候らへ共、<中略>水ニこまり相止み候由、此間水抜工夫いたし申し候」
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